自分のこと、家族のこと



私は、難聴ママです。
補聴器がなければほとんど会話はできません。
こんな私が、お客を相手にする自宅ショップを持とうと考えるなんて、かなり無謀かなとも思っている。
でも、カントリーが好きなのはもちろんのこと、人が好きだから・・
おしゃべりが好きだから・・いつも人と接していたいから・・・・

難聴になったのは7歳の時。
ストレプトマイシンという、強い抗生物質の副作用で耳がやられた
それでも、結婚して子供産むまでは補聴器がなくても生活できた。
子供を一人産むたびにどんどん悪くなり、現在は、障害者手帳4級の認定を受けている。
長女出産の時は、産声は聞こえなかった。その時はまだ、補聴器を持っていなかったから。
長女5ヶ月の時、初めて補聴器を交付して貰った。
おかげで長男・次男の産声は聞くことができた。
難聴で一番苦労したのは、やはり育児。
子供たちそれぞれがまだ乳児期の頃なんか、寝ている最中に補聴器の電池が切れて泣き声に気が付かず、朝まで私ぐっすり・・なんてことがよくあった。
主人は夜勤のある仕事だから、そういう失敗は主人のいない夜だけ。主人のいる日は、主人が起こしてくれていた。
それから、子供との会話・・・。口元が見えないと話がわからないから、子供に話し掛けられると、何をしていてもその手を中断して
子供の顔を見なければならない。
顔の見えないところで呼ばれても聞こえないから、一番怖いのが、自転車で私が前、子供が後ろを走っているとき。
後ろを走っている子供が、電柱に激突したり、こけたりして泣き叫んでも、私は気がつかないから置いて行く。後ろを見て初めて子供がいないのに気づき戻って見ると、泣きながら自転車を引っ張って歩いている・・・なんてこと、よくあった。
お風呂場から「おかーさーん!」なんて呼ばれても聞こえるわけないから、今では子供たち、壁をドンドン!って叩くことにしている。
声は聞こえなくても、壁をたたく音は聞こえるから。

手話は全くできない。口元さえ見えれば、相手も私が難聴だなんて全く気が付かないから、手話の必要性もなかった。
しかし、今回のSARS騒ぎにはヒヤッとした。日本でもSARSが流行すれば、みんなマスクをしてしまう。そしたら、誰とも話ができなくなってしまう!・・・と。
花粉の時期は大変だ。
周りのお母さんたちは私が難聴だと知ってるから、私と話をするときはいちいちマスクを取ってくれる。とってもありがたいんだけど
その後くしゃみが出たりしてみんな大変なんだ。。。

「自分は難聴です!」って言えるようになったのは、長女が幼稚園に入ってから。お母さんたちとの付き合いで、いろいろ不便な事が出てきて・・・・・それまでは言えなかった。
賑やかな所では話がわからないから、今では、飲み会や食事会に誘われても断るようになってしまった。「話ができないから・・」と。
人一倍おしゃべり好きで、大学時代は連日朝まで飲んで騒いでいた豪傑姉御だったのに、難聴がひどくなってからは、突然孤独になってしまった。
あんなに好きだった飲み会にも行けなくなって、オタクになりつつある私をいつも外につれて行ってくれるのは主人だ。
主人なら、賑やかな所に行っても遠慮せず気も使わないですむ。
次男坊が小学校に上がってからは、しょっちゅうランチを食べに行っている。
「今日は、デートに行ってもいいかな~?」と子供に聞いて、夜一時間だけ飲みに行ったりもする。
「結婚15年も経って、こんなにいつもくっついてる夫婦も珍しいかもね」といつも笑っている。
なぜこんなに、主人はやさしいのか・・・
それは、お義父さんも全盲の障害者だからだと思う。
全盲の義父の代わりに、小さい時から家の事を何でもして来た。義母は朝早くから仕事に出かけていたし・・学校から帰るといつも食器洗いをしていたらしい。
主人は一人っ子だ。障害者の親を持つ身として、自然にやさしい子になったのだろう。
でも、親子喧嘩は半端じゃない。いつも怒鳴りあいの喧嘩だ。
私が嫁に来てからは全面的に私の味方なので、「俺のかみさんに何すんだ~!」って、私のことで喧嘩ばかり・・・。
でもやっぱり最後には、「親父に寿司でも買ってくるか・・」なんてつぶやいているの。
義母は、脳梗塞から痴呆が進んで、去年からホームに入っている。
時々面会に行くと、私の顔を見て「OOちゃ~ん!」と泣いてしまうとってもやさしい義母だ。
主人は嘆いている。「俺が面会に行っても絶対泣かないのに!」と。

難聴の母親、全盲のおじいちゃん、痴呆のおばあちゃんを家族に持った子供たちは、いつの間にかとてもやさしい子に成長している気がする。
難聴になって辛いこともいっぱいあったけど、人のやさしさをたっぷり感じることができる人間になれたことが一番の収穫かもしれない。



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